人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚からしい。
そうだとするのならば、今の世界を生きる人間達の大半が愚かなのだろうか。
港地区、中央部。
都心へと向かう唯一の鉄道が走る駅に程近い、オフィス街。
高いビルが乱立している中に、ぽつりとある、三階建ての小さな建物。
それはビルと言うにはおこがましかったが、しかし、マンションでもアパートでもない。
中途半端な規模の中途半端な建物だった。
駅近くという素晴らしい立地条件を持ちながら誰かが入っていく光景を見た人間は少ない。
不思議なものだった。
そして、この不思議な建物には建物以上に不可思議な人間が二人、住んでいる―――
「……ひ。…さひ。あ、さひ。
朝陽。起きて。…起きて、と言ってる…」
女性が青年を揺り動かして起こしていた。
多少手つきは乱暴だったが、しかし、朝陽、と呼ばれた青年は目を覚ます気配もなく、
「…んー…んあ?…今日は何もねえだろ…まだ寝かせろって…」
と、わずらわしそうに言い、コートを掛けなおした。
「……黙って起床する…依頼」
「んー…くー」
数秒の沈黙の後、女性はおもむろに立ち上がって、部屋の隅にある水道へと向かった。
流しの下に放置されている小さなバケツを手に取り、水を汲み。
「……いい加減起きればいいと思う」
「うおあっ!?」
ソファでコートを布団代わりに眠っていた朝陽青年の頭に、躊躇なく、思い切り、ぶちまけた。
当然頭からびしょ濡れになった朝陽は飛び起き、女性の方を見遣った。
「……朝陽はいつも寝起きが悪い」
挨拶代わりにそう言い放った女性を見、苦笑し、
「だからって水をかけるこたねえだろ、
朔夜…」
「……なら、毎朝まともに起きればいいと思う」
返す言葉もなく、単純にすいません、と謝った。
因みに朝陽は女性――朔夜よりも六つほど年上である。
完全に尻に敷かれていた。
「ったく、いくら兄妹だからって、なあ?」
「……何を訊いているのかは敢えて尋ねないけれど、依頼人が来ている。早く起きて一階に下りて」
「依頼人?…この時期に?」
「……いいから早く」
それだけ言うと、朔夜は部屋を出て行った。
朝陽は再び苦笑すると、立ち上がって軽く身体を解す。
ストレッチを終わらせると、ソファの上に置かれていたコートを羽織り、部屋を出て階下へと向かい。
「一階、ねえ。…多分ここだよな?」
一人ごちてから、扉の一つを薄くあけ、中の様子を見る。
「……すみません。もう少しするかしないか、多分もう数分もかからないとは思うのですが、少しだけしたら、兄が来ますから」
「い、いえ、お構いなく…」
「……というか、きているなら入ればいいと思う」
「ばれたか」
「……ばれたか、じゃない」
朝陽としては茶目っ気を演出するための一言のつもりで言ったようだが、逆効果だったらしい。
扉を普通に開けて、妹の隣に座り。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは…ん?」
依頼人だろう、と目の前に座る人間に目を向け、朝陽はそのまま硬直した。
大人しそうな、女性的な顔立ちに銀縁のメガネ。
丁寧に整えられた髪、白いワイシャツにジーンズ。
「……
輝薙、
流。十六歳、民俗学博士、この国で唯一の大学にあたる000大学所属。講義等は行わず、立場はただの研究員」
「はい、その通りです。宜しくお願いします」
「へえ…いや、驚いたな。朔夜、…妹から聞いてるとは思うけど、俺が
志野朝陽だ」
どこにでもいるような平凡さを持った少年。
言われてみればどこかで顔を見た気がするな、と朝陽は一人ごちた。
「で、何だ?依頼って言うんだからそりゃあ壊して欲しいのがあるんだろうが」
「……其の前に、どこで私達のことを?」
「はい。一番最初に聞いたのは単なる噂だったんですけれど、…このチラシを貰って」
そう言って流は鞄からファイルを取り出し、大事そうに綴じられた紙を取り出す。
「はー…よくこんなもん見つけたな?」
「苦労しました」
「……そうまでして、何を?」
チラシを受け取り、――この場合は返却させる、といった方が正しいかもしれないが――朔夜が尋ねた。
「…はい。実は、…僕が所属している大学を、000大学を、完全に壊して欲しいんです」
「おい、正気か?滅茶苦茶だぞ?この国の研究員が嘆くぞ?ここだけなんだから」
「はい。僕は正気です。お願いします。…報酬なら、幾らでも出します。出せます。だから、お願いします…!」
「……分かりました。受けます」
「おい」
「……報酬を約束されたんだから、依頼は受ける。これは始めた時に一緒に決めたことだと思う」
「…わーったよ、わーった…少年、受けてやる。だからとりあえず、大学の図面やら何やらがあれば寄越せ」
「あ、ありがとうございます…!宜しくお願いします!」
「おー。…これがそうか。へえ、やっぱ大学って広いな。朔夜潜入頼むぜ」
手渡された図面を見、一人感心しながら朝陽が言うと、
「……分かった」
「よし」
ほぼ即答し(朔夜の癖なのか、若干返答までに時間があったものの)。
「……ここに、サインを。上に免責事項があるのでそれを確認しておく事を勧めます」
「はい。……………これでいいですか?」
「大丈夫そうだな。よし、契約成立だ。あとは待ってりゃこっちで勝手にやるよ。帰ったほうが良いぜ」
「……下手に遅れていくと、何か問題があるのでは?」
「あ、そうでした。…宜しくお願いします」
立ち上がった流に合わせて朝陽が立ち上がり、
「送ってくよ少年。つってもそこの駅までだけどな」
「ありがとうございます」
部屋を出、ドアを開け(その際さび付いた金属が擦れるなんとも言えない厭な音が響いた)、閉め。
朝陽が口を開いた。
「なあ少年。俺と妹の間では依頼人に事情聞かないってのが暗黙のルールになってんだけどさ」
「はい。……気になりますか?僕が大学の破壊を依頼した理由」
「そりゃあ、まあな。安心しとけよ、俺は口がそれなりに堅い方だから」
流は苦笑し、ぽつぽつと語りだした。
「僕は主に童話なんかを調べているんです。三年前に亡くなった祖母の影響なんですけれど…」
「おう。それで?」
「僕は個人的に研究できればよかったんです。それが、叔父と叔母に強く勧められて…今の地位に」
「…そりゃあ、災難だったな。でも随分身勝手じゃないのか?」
「尤もですね。けれど辞めさせてもらえません。皆家に帰れていませんし。…何と言うか、閉じ込められているというか」
「…それじゃあどうやってここに来たんだよ」
「幸い、この辺りには面白い昔話が残っていましたから。研究の名目で。…付添いを撒けたのは奇跡に近いです」
「成る程な。よーっく分かったよ」
「はい。…ああ、もう駅ですか…それじゃあ、宜しくお願いします」
「ああ」
小走りで去っていく流を見届け、
「………はあん。なんだ、ああいう家もあるんだな…面白え」
朝陽はつまらなさそうに呟いた。